http://www.youtube.com/watch?v=5yJLhZescY8
◇ TBS RADIO 2010年3月10(水) キラ☆キラ オープニング - 小島慶子 キラ☆キラ
http://www.tbsradio.jp/kirakira/2010/03/2010310.html
水曜日のゲスト・ライムスター宇多丸師匠とのトーク。
◇ 半藤一利『15歳の東京大空襲』(ちくまプリマー新書)
http://www.amazon.co.jp/dp/4480688323
http://www.bk1.jp/product/03237869
◇ ■ 3月10日東京下町大空襲 ■ - 社会科学者の時評
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2777025
>>>空襲日記
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090924#p3
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>>>イスラエルによる「ガザ攻撃」関連
正当化論の虚構を衝く
空爆の誕生からイラク戦争まで、いまも続く破壊と虐殺の歴史を克明に描きます。本書の論の特徴の一つは、空爆の誕生および空爆を支える思想の起源を、1900年代初めの帝国による植民地戦争に見ている点です。「文明国」が、当時の最先端技術である飛行機(あるいは飛行船)を使い、「未開」の人々を虐殺し、植民地を支配する。すなわち、力の圧倒的な優位性を背景に、力を持たざる者へ攻撃を加えるという差別的な構造・思想が、空爆の起源にあり、それが現在まで続く「空爆正当化論」を支えていると、著者は指摘します。
「戦争を早期に終えることができ、長期的にみれば、空爆は人道的な手段である」。これは第一次大戦後、イタリアの将軍ジュリオ・ドゥーエが、その著書『空の支配』(1921年)に著した考えです。いわば、空爆思想の原型ともいえるものです。この加害の側の身勝手な論理が、空爆の「発展」、すなわち戦争の「発展」を支え、形を変えながらも、同様の思想が現在も生き続けていると言えます。
湾岸戦争の際に登場した「ピンポイント爆撃」。すなわち、軍事施設を精密に爆撃できるシステムという触れ込みで、現代のハイテク戦争の特徴を示すものとして注目されました。その後、アフガン戦争、イラク戦争でも、爆撃の精度の向上、精密度の高さを、加害者であるアメリカ側は強調します。しかし、そうした「精密爆撃」という考え方は空想に過ぎないことが、本書では明らかにされます。正確さ、精密さを強調することは、ドゥーエの言う「人道的な手段」という虚構の論理を強調しているに過ぎません。むしろ、精密さ、正確さの強調は、加害の意識を薄れさせることに力を発揮していると言えるのかもしれません。
空爆される側、すなわち破壊、虐殺される側の現実、そして、空爆を行う側、すなわち破壊と虐殺を執行する側の論理。その二つの視点から、空爆の歴史をとらえなおし、点と点を結びつけることで、戦争の残虐性、戦争を正当化する論理の虚構が克明に浮かび上がってくることと思います。
青島爆撃や重慶爆撃など、空爆の加害者として、かつ、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下など、空爆の被害者として、双方の歴史をもつ私たちにとって、とても重要なテーマであると思います。ぜひご一読ください。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0808/sin_k427.html
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◇ デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)
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◇ 広瀬隆『クラウゼヴィッツの暗号文』(新潮文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/4101132348
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090114#p12
>>>再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070414#p3) ※リンク切れ削除ほか少し修正
◇ Kurt Vonnegut(1922 - ) - PAPERBACK GUIDE
一度の死者数では、広島原爆の犠牲者数をも凌駕する悲惨をまのあたりにし、そうした愚行を許す人間の本性に絶望したヴォネガットは、絶対的なもの(たとえば神)にすがることでなく、また声高に非難することでも憎悪することでもなく、かなしみとペシミズムを軽妙な文体に潜ませた作品群(とりわけ初期の作品)を発表しますが、処女長編から17年を経て、ようやくにして書かれたヴォネガット自身のドレスデンでの体験を核とした本作品が、彼にとって最も重要な作品であることは間違いないと思います。そもそもこのドレスデン体験がヴォネガットの作家としての原点であったこと、この体験を経なかったなら彼は作家とはならず、したがって彼の全作品は書かれなかったのではないか、そうした思いさえ抱かされます。