Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

佐々木敦さんのツイッターより

佐々木敦 (sasakiatsushi) on Twitter

先週のワセダでしてた話。最近、河出文庫で出た『ベンヤミン・アンソロジー』は、色んな意味で相当に画期的、野心的な本だと思うのだが、一番のポイントは、これまで「アウラ」と訳されてきたのを思い切って「オーラ」にしてることだ。僕もかねがね不思議だったんだよね。だってオーラじゃん。

よくわかんないけど、たぶん最初に複製技術時代の芸術が訳された頃は、まだ今みたくオーラという言葉は日常的に使われてなくて、なので原語の発音でアウラにしたわけだけど、その後オーラと言うようになり、オーラの泉とも言うようになって、なんだかオーラとアウラが別みたいな感じになってしまった。

というかオーラとアウラが同じであることはもちろんわかっていても、ベンヤミン用語としてはアウラで他はオーラ、みたいな感じで、なんだかアウラと言った途端に高尚で難解な空気感が生じるというか、それはそれでわかんないわけでもないけれど、やっぱりこの際、オーラと言ったほうがいいと思うのだ。

それで思い出したのはジャニーズのことで、皆さんご存知のように英語のスペルだとJohnny'sであり、だったらジョニーズじゃん、と思うのだが、ジャニー喜多川だしジャニーズなんだよね。ジャニーズってゆっちゃったからジョニーでもジャニー。

で、何が言いたいのかというと、別にカタカナ表記問題は割とどうでもよくて、結局ひとはコンテクスト・ベースでしか物を考えられない(ことが多い)ということ。オーラではなくアウラと言ったら何だかありがたみがあるみたいな気がするから、アウラのまま、といったような。

そこで思い出すのはジョン・ケージのことで、昨年末にイギリスで盛り上がったらしい「CAGE AGAINST THE MACHINE」は、なかなか痛快な騒動だったと思う。

毎年クリスマスシーズンのナショナルチャートで、テレビの大人気オーディション番組X-factor出身者が一位になってしまうのにムカついた音楽ファンが結束して、皆でレイジアゲインストザマシーンを一位に押し上げようぜキャンペーンをやって、ホントに首位を獲ったのが09年。

で、その一年後にどうするかと思ったら、いきなりダジャレというか笑、今度はケージアゲインストザマシーンだ!とか言い出して、なんとあの「4分33秒」をカヴァーして一位を獲らせよう、というのをやったわけ。今ではCDも出ている。これ知ったときは思わず爆笑しましたね。

いいなあ、と思ったのは、ジョン・ケージをパロってるというよりも、むしろこういうやり口の方がケージの精神に即しているから。「4分33秒」にしても、ケージの名のもとにありがたがる妙な信者みたいな人と、はなからバカにしたり最早古いとか言いたがるだけのアンチの両極になっている気がする。

僕の考えでは、その両極は結局のところ同じようなものだと思う。それに較べケージアゲインストザマシーンの稚気が持つ軽やかさはどうだろう。問題はジョン・ケージという固有名ではなく、ケージがどういう考え方を提示したか、それがどんなポテンシャルを今なお持ち得ているか、どう使えるか、なのだ。

時々、現代音楽/実験音楽のコンサートで、ことさらに「4分33秒」を演奏してたりするけれど、あれを観てるといつも複雑な気持ちになる。さあこれから「4分33秒」をやりますよ、といってやるなんて、まったくもってくだらない。はっきり言って、ほとんど何の意味もないことだと思う。

僕もムサビの授業では毎年「4分33秒」を聴いてみるというのをやっているのだけれど、それはいつもCDをかけていて、ただ「4分33秒」という具体的な時間の持続を体感させるためだ。偉大なる作曲家ジョン・ケージの作品を演奏/聴取致します、ということならば、それはナンセンスでしかない。

あるいは、よく冗談で言ってることだけど、ある時いきなり、いま「4分33秒」が終わったよ、と告げる(笑)。つまり現在の瞬間から遡行して「4分33秒」という作品体験が見出される、というの。それだったらなんとか成立すると思う。だが、なかなかジョン・ケージの名前を切り離すことは出来ない。

で、話がまた跳びますが、Core Of Bellsがいいなあと思うのは、思いきしコンセプチュアル・アートみたいな、往年のフルクサス的なことをやっていても、マジメな顔をしてればしてるほど、マジメには到底思えないというパラドックスを抱えているから(笑)。フザけてるようにしか見えない。

だが、まったく同じことをやっているのに、それらしい厳かな状況の中で、しかつめらしい顔をしていればシリアスに受け取られ、半笑いで腹とか丸出しだとフザけてるだけと思ってしまうというのは、ほんとうはやはりおかしいのだ。しかしひとはどうしてもコンテクスト・ベースで物事を評価してしまう。

長い原稿をフィニッシュして、ついつい興奮した、、、

僕は、自分の価値観や趣味判断や思考法が、おそらく一般的な、あるいは正統的なそれらに比して、格段にマイナーなものであることを、いつからか自覚していて、いわゆる自己承認欲求はたぶんかなり薄い。だが、マイナーさをわかっているからこそ、自分の存在意義については、ことのほか敏感でもある。

僕は、多くの人から同意や共感を得られそうだからでも、その反対のマイナーをマイナーだからよしとする不可思議な持ち上げ方でもなく、更に言えば、自分と同じような考えだからというわけでさえもないのに、僕の書くことや話すことを、本気で面白がってくれる人と、仕事をしていきたい。

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>>>“「選択」と「認識」がなければ、
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060925#p6


※過去の佐々木敦さん関連
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