Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

騒動 - 〈B術の生態系〉Bな人のBな術

「カオス*ラウンジ」、或いはその「メンバー」と、特にその2011年に入ってからの一連の「騒動」は、多くの人間(但しごく一部の日本人)にとって、この2011年夏段階で、口籠りの対象であるかの印象を受ける。若しくは、その「騒動」を「触れたくないもの」としているかの印象すらある。或いはまた、それについて書かれていたとしても、酸っぱいものが口中に広がっている書き手の表情が浮かんでくるかの様だ。いずれも、歯切れは決して良いとは言えない気がする。それでも「文化系」の人の一部には、同じ「文化系仲間」意識故か何かなのだろうか、その実際上の、「仁義」だか、「手順」だか、「礼節」だかの瑕疵を指摘した上で、しかしそれを上回るとする彼等の「コンセプト」を「文化」的に擁護する様な書き方をする人もいる。


彼等の「コンセプト」の核の一つであるだろう、「現代芸術」的な意味での「主体の否定」は、それこそ「現代芸術」の伝統的且つ正統的なライトモティーフであり、その21世紀初頭の日本に於ける最新バージョンとして、彼等の「宣言」と数々の「弁明」から導き出される「コンセプト」を、その「現代芸術・主体の否定史」のセンター位置に置く事は、可能と言えば可能ではある。それ故に、21世紀初頭の日本に於いて、伝統の「主体の否定」の最新版である彼等が、21世紀初頭の日本の「文化」的に言って、「重要」な位置にいると思えたりもする事もあると思われる。


少し前(と言っても数十年前)なら、例えば「ウィリアム・S・バロウズ」であったもの、或いはその少し後には「リミックス」や「サンプリング」であったもの、或いはまたローカル的には「盗め!」であったものが、21世紀初頭版のそれは、「ローレンス・レッシグ」や、「リチャード・ストールマン」や、「アーキテクチャ」や、「ネット」や、「二次創作」やらの語で修飾される事になる。そうした「現代芸術・主体の否定史」こそが、「現代芸術・コンセプト史」や「現代芸術・文脈史」を、伝統的に形成してきたと言えるだろう。

http://d.hatena.ne.jp/murrari/20110803/1312345274


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