ジョナス・メカスの名を初めて知ったのは、1960年代の初め浅草六区にあった小さなカレースタンドをまかされていた時分だった。映画をやりたくて松竹系の会社を受けたら、配属されたのが撮影所ならぬカレースタンドだったというわけだ。
休憩時間になると六区突き当たり浅草東映の隣にあった書店奥の古書コーナーに日参していた。ある日、整理されないまま積み上げてある本の間からタイプ刷りの小冊子「世界映画資料」を掘り出した。「世界映画の新しい波」という特集タイトルに惹(ひ)かれたのだが、その巻頭「自由な映画を目ざして」という文章を寄せていたのがジョナス・メカスだった。
〈「おれは本気なんだぜ!」と私はニューヨークの友人に大文字を使って書いてやった??「若い映画作家なんてアメリカにいるもんか! 我々の為(ため)に誰かがやってくれるだと。??自分でやらなきゃ駄目さ」(三木宮彦訳)〉
日本で活字になったメカスの最初の文章だったろう。火を吹くような勢いで書かれたこの文章が、撮影所にもぐり込むことに悶々(もんもん)としていたぼくの心に、天啓のように突き刺さった。
活字との出会いは不思議なものだ。他人にとってはなんでもない言葉でも、後の人生を左右するほどに強く共鳴することがある。いまも忘れられない瞬間だった。
自分でやればいいのだ!と、ただちに入手した中古の8ミリで撮りはじめ、やがてメカスと同じように個人で手がける映画のシネマテーク活動を日本でも創(はじ)めるようになり、いくつかの集合・離散を繰り返しながら実験映画の総本山を自負できる「場」を築き上げることとなった。
『メカスの映画日記』はそうした活動のバックボーンとなった書物である。初出はニューヨークの「ヴィレッジ・ヴォイス」紙に58年以来書き継がれてきたコラム「ムービー・ジャーナル」で、スターとストーリーを金科玉条とするハリウッド映画に対抗して、ぼくが初めて出会ったときの激しさそのまま、映画の本質を説き、個人で制作された映画を育み、守り抜いてきた軌跡が綴(つづ)られている。
いわば個人で制作する映画=芸術の、実践に裏打ちされたバイブルである。74年に上梓(じょうし)され93年に改訂版を刊行、映画関係のみならず息長く読み継がれている。昨今、デジタルビデオの普及によって個人で映画制作が容易になり、しかし、その大半は商業映画の方法の踏襲である若い世代の映画制作にとって「自由な映画を目ざして」いまこそ服膺(ふくよう)されるべき一冊といえるだろう。