Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

コラージュの長所と限界について ポール・アーサー - YIDFF: 刊行物: DocBox: #11 - YIDFF Official Site

すべては素材、私たちが手にする素材というものの謎のなかにある

エスフィリ・シューブ(1927年)


映画(シネマ)が写真を後ろ楯にして、「西洋の絵画が写実への執念を決定的にぬぐい去り、その美学的な自立性を回復することを可能にした」 1 という考えを擁護した人物は、アンドレ・バザン以前にも存在したが、彼ほど強い影響力を及ぼした人間はいなかっただろう。バザンが映画(フィルム)の自立的な特質と見たものと、同時代人のクレメント・グリーンバーグが近代絵画における規範と定義したものとは、明らかに別 物である。1945年に独自の存在論を主張したバザンが、絵画と写真の境界がほとんどなくなってしまった現在の世界のアートシーンを見たらどう思うか、興味深いところだ。また、連続した時間を何物にもじゃまされることなく明瞭に記録するという映画の特性を、リアリズムの基本として持ち上げたことで有名になったバザンなら、ポスト60年代のノンフィクション映画においてパターン的に使われているファウンド・フッテージのコラージュをどのように評価するだろうか。もちろんバザンにしても、1912年にキュビズムの絵画が外部の素材を取り入れ、さまざまなスタイルのコラージュを生み出したことが、絵画の表層における美学上の「自立性」や、根本的な構成原理となる部分と全体をつなぐ関係性に対するきっぱりとした異議申し立てであったことは心得ていた。ソヴィエトのモンタージュ効果 をはじめ、編集における分析的な手法一般に対するバザンの攻撃は、論文「禁じられたモンタージュ 『白い馬』『赤い風船』『特異な妖精』」 訳注1 などで詳しく展開されているが、これはコラージュを映画上の言説に分裂をもたらす「権威主義的な」モードとして拒否するための筋書きを示しているかのようだ。 2 しかし現時点から見た場合、バザンのアプローチは、歴史的な遺産としてのファウンド・フッテージや、現実を表象する上で重要となる素材自体の価値について理解するうえでは、あまり役に立たないのである。

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