Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

エクリチュールについて (内田樹の研究室)

ご存じのように、エクリチュールというのはロラン・バルトが提出した概念である。
バルトは人間の言語活動を三つの層にわけて考察した。
第一の層がラング(langue)
これは国語あるいは母語のことである。
私たちはある言語集団の中に生まれおち、そこで言語というものを学ぶ。ここに選択の余地はない。私は日本に生まれたので、日本語話者として言語活動を開始する。
「国際共通性とか考えると英語のほうが有利だから、英語圏に生まれたい」というようなことを言うことはできない。
第二の層が「スティル」(style)。
これは言語運用における「パーソナルな偏り」のことである。
文の長さ、リズム、音韻、文字の画像的印象、改行、頁の余白、漢字の使い方などなど、言語活動が身体を媒介とするものである以上、そこには生理的・心理的な個人的偏差が生じることは避けがたい。
ある音韻や忌避し、ある文字を選好し、あるリズムを心地よく感じる・・・といった反応はほとんど生得的なものであり、決断によってこれを操作することはできない。
例えば、私は中学生の頃、とつぜん「た」行で始まる単語を言おうとすると吃音になるという時期があった。
「たかだのばば」と言おうとすると単語が出てこないのである。
駅の窓口で「う・・・」とうめいたきり立ち尽くすということが何度もあった(当時は自動販売機がなく、窓口で行く先を告げて切符を購入したのである・・・というようなことを説明しないといけない時代が来ようとは)。
しかたがなく、高田馬場へ行くときは「目白」とか「池袋」といって切符を購入した。
このような言語活動上の「偏り」は主体的決断でどうこうできるものではない。
それが「スティル」である。
若草物語』のジョー(Jo)は「ジョゼフィーン(Josephine)」という名前が大嫌いであった。『赤毛のアン』は「私はAn じゃなくて、Anneよ」としばしば主張していた。
音韻について、あるいは表記についての、個人的好悪は誰にもある。
それについて「正しい」とか「間違っている」とかいう判断は誰にもできない。
「あ、そう」という他ない。
それが「スティル」。
それに対して第三の層として「エクリチュール」というものが存在する。
これは「社会的に規定された言葉の使い方」である。
ある社会的立場にある人間は、それに相応しい言葉の使い方をしなければならない。
発声法も語彙もイントネーションもピッチも音量も制式化される。
さらに言語運用に準じて、表情、感情表現、服装、髪型、身のこなし、生活習慣、さらには政治イデオロギー、信教、死生観、宇宙観にいたるまでが影響される。
中学生2年生が「やんきいのエクリチュール」を選択した場合、彼は語彙や発声法のみならず、表情も、服装も、社会観もそっくり「パッケージ」で「やんきい」的に入れ替えることを求められる。
「やんきい」だけれど、日曜日には教会に通っているとか、「やんきい」だけれど、マルクス主義者であるとか、「やんきい」だけれど白川静を愛読しているとかいうことはない。
そのような選択は個人の恣意によって決することはできないからである。
エクリチュールと生き方は「セット」になっているからである。
バルトが言うように、私たちは「どのエクリチュールを選択するか」という最初の選択においては自由である。けれども、一度エクリチュールを選択したら、もう自由はない。
私たちは「自分が選択したエクリチュール」の虜囚となるのである。
つまり、私たちの自由に委ねられているのは「どの監獄に入るか」の選択だけなのである。
私たちの前には「ちょい悪おやじのエクリチュール」「小役人のエクリチュール」「お笑い芸人のエクリチュール」「キャッチセールスのエクリチュール」などなど無数の選択肢が広がっているけれど、一度選んだら「終わり」なのである。
なぜ、そのような制式化された社会的言語が存在するのか。
これについては、バルトはとくに踏み込んだ分析をしていない。
そういうものがあって、現に活発に機能していることを指摘するだけで批評的価値は十分だと思ったのだろう。
しかし、社会的言語運用がきびしく制式化されており、自分が所属する社会集団に許されたエクリチュール以外の使用が禁止されているのは階層社会の際立った特徴である。

http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1132.php


内田樹『街場の文体論』(2012) - 國枝孝弘研究室

 三つ目は内田が引用しているロラン・バルトの言うstyleである。日本語にすれば文体であり、上述の「クセ」に多少似ているが、内田の指摘によればもっと身体化されている言語表現である。「個人的な好悪」、ある音やある文字に対する「パーソナルな好み」であって、これは「自分でもどうにもならない」(p.120.)。血液の流れや心臓の鼓動といった身体活動を、いくら自分の体だと言っても何の制御もできない。それと同じ意味で「自由意思」でどうにもできないものが「文体」である。

 内田によるバルトの言語理論の概説はきわめて明快に切れ渡っている。バルトによれば言語は3層にわかれる。スティル(style)、ラング(langue)、エクリチュール(écriture)である。ラングも気づいたときには話しているという意味で、私たちの自由意思では選択不可能なものである。「ラングは外的な規制、スティルは内的な規制」と整理した上で、内田は「エクリチュールはこの二つの規制の中間に位置する」とする(p.121.)。

 大事なことは、エクリチュールは「局所的に形成された方言」のようなもので、これには選択の自由があるということだ。しかし、それでも一度選択すると、私たちはエクリチュールの檻に閉じ込められ、社会的なふるまいを規定されてしまう。どんなイデオロギー、どんな主観性をも排除したエクリチュールが「零度」の地点だが、そのようなエクリチュールが現実に達成されることはまずありえない。

 私たちにことばは、選択してはいるが、その選択が、社会身分や、嗜好や、他者への態度など、あらゆることを私たちの意図いかんによらず反映してしまう。そしてその網から抜け出して、新しいエクリチュールを獲得することは、きわめて困難である。

 実は『街場の文体論』で問われているのは、こうした文体、および文体によって規定される言語使用とは対極的な言葉のあり方である。問いはひとつ。「生成的な言葉とは何か」。

 確かに「思いついたことをだらだら話して」はいるが、最初から最後まで生成的な言葉をめぐって考えが述べられているという点では一貫している。例えばエクリチュールの零度は、社会的な規制から逃れること、自由になること。その意味で生成的な言葉が生まれる可能性への問いであり、同時にそうした言葉でさえ再びエクリチュールに回収されることのあきらめでもある。内田は次のバルトの言葉を引用する。

作家が仮に自由な話法を創造したとしても、それは既製品という形で彼のところに差し戻されてくる(p.148.)。

 たとえ自由な話法がみずみずしい生命をもたらしたとしても、それはすぐに枯れてしまう。新たなメタファーを創造したときから、すでにそのメタファーが紋切り型となり、流通してしまうことと等しい。生命とは私たち個の存在の根拠にも関わらず、言葉はすぐにこの個の固有性を抹消してしまう。

 生成とは何か。生成とは単に私たちが生きているという事実ではない。単に生きていることは、既成のコードに従って言葉を発し、世界を惰性で眺め、そして他者を「こんなものだろう」となめてかかることに過ぎない。

http://kunieda.sfc.keio.ac.jp/2012/10/2012.html