Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

論座 2001年3月号 元原稿 - MIYADAI.com

■原初的共同体においては、昨日あったように今日もあり、今日あったように明日もあるという「慣れ親しみ」が支配しています。いわば、自明性についての共通感覚です。それゆえに、名指されたモノや行為に対して、それをどう体験し、それに対してどうふるまうべきか、という体験と行為の枠組みが、あらかじめ共有されていました。

■そういう段階では、特定の生活分野を除いては語彙が限られていて、その代わりにことばにならないもの、ことばとことばの間についての、感覚もまた共有されていました。話さなくても通じる、ということです。原初的共同体では、祭祀や薬物などあらゆる手段を通じて、ことばにならないものについての感覚を研ぎ澄ますことが奨励されていました。

■自明性についての共通感覚を破る事態が生じると──原初的共同体では自然災害や流行病や奇矯な振舞いがつきものですが──、ことばにならないものについての感覚の共有をベースにして、共同的な儀式が行われ、有害なものを聖化して日常のフレームから切り離し、そのことで慣れ親しまれた世界を温存する、といった所作がなされていました。

■ところが社会システムが複雑になると、ことばを支える共通感覚、ことばにならないものについての共通感覚の、分化が生じます。共通感覚を持たない者同士が、決定をしたり約束事をしたりするために、ことばがふんだんに使われるようになります。共通感覚に覆われたアナログなことばの世界から、一般的通用力をもつデジタルなことばの世界へ。

■物物交換から一般的購買力を持つ貨幣の世界に移行するように、アナログな共通感覚から一般的通用力を持つことばの世界に移行します。どこでも通用するためには、ことばに動機づけの機能が未分化に備わっていては都合が悪い。なぜなら、何かについて、どう振る舞うべきかをオープンにして置かないと、複雑なシステムを組み上げられないからです。

■こうして、世界を細かく認知的に規定することばの機能と、規定されたものにどう振る舞うかに関わる動機づけの機能とが、分化する。それが、複雑な近代社会の特徴です。人は、共通感覚に支配されたことばによってではなく、愛によって動機づけられ、貨幣によって動機づけられ、権力によって、個人ごとに異なる形で動機づけられるようになります。

■しかし日本では、紛争処理に関わる法システム、資源配分に関わる経済システム、集合的決定に関わる政治システム、人の再生産に関わる家族システムなどが分化しているという意味での「近代社会」を達成するのに、例えば近代天皇制による国民化などという独特の経路を辿ったがゆえに、複雑な社会にふさわしいことばの用法が一般化しませんでした。

■したがって現在でも、共同体の共通感覚を絶えず当てにしながらことばを使うという、原初的共同体に近い使用法から脱却できていないし、ことばの認知的な機能と動機づけ装置とが未分化に癒合していて、名指されたものを同じように体験し、それに対して同じように振る舞うことが、当然のように期待され合うという、実に驚くべき状況にあります。

■典型的には、相手が自分と同じ前提を持つと考えられないとコミュニケーションを先に進められない。同じ前提を持つと期待できる人とだけ永久に戲れる。同じ前提を持つ者たちの輪から外されるとコミュニケーションを生きられなくなるので同調圧力に負け続ける。共通前提を確保するために身内のジャーゴンを異様なほど作りたがる。などなど。

■そこには近代社会が期待しているような、動機づけとは切り離された形で、厳密に認知的にことばを使用する習慣が、ありません。人口に膾炙した言い方では、何が事実であり、何が意見であるのかを峻別する習慣がありません。言い換えれば、事実は何かということよりも、共同体的なノリが維持可能かどうかのほうが優先するわけです。

■事実を書くことが新聞の使命なのですから、統計学的なデタラメを一面で平気で書いているようでは、この国はお先真っ暗です。さらにこうしたフレームアップの背景については、学問の世界に、ステレオタイプ研究やフレーム分析の膨大な蓄積があるので、頼むから、学問的常識のほんの一部でもいいから、踏まえてほしいと切実に願うわけです。

■あと、諸外国のクオリティマガジンと比較して、日本の論壇誌が決定的にダメなのは、「日本にも道徳の再建が必要だ」「共同体の再建が必要だ」という「〜が必要だ」という締めが多いことです。それで皆が頷きあってカタルシスを獲得するという共同体的な作法が、論壇を覆い尽くしているのです。要するに「で、どうすんの、おまえ」ということ。

■必要ならば可能なのかよ。不可能だったらどうするんだよ。必要なものの代替的選択肢は検討されているのかよ。そうしたことが全然検討されていない。僕は「〜が必要だ」のごときことばを、学生たちには「論壇的たわごと」だとして退けるようにを教えていて、そのためには反面教師として論壇誌をよく勉強するといいと、言いつづけてきています。

■日本におけることばの最も貧しい用法が、論壇誌に展開している。その一つの証拠が、各原稿に付けられているお見合いの釣書のような長たらしい経歴(笑)。所属と主著だけでいいじゃないですか。これ一つとっても、そこでは目から鱗が落ちるような新しい認識が期待されているわけではなく、共同体的安心が要求されていることがよく分かります。

■驚くほど貧しいコミュニケーション空間ですが、それを言えば、国会や地方議会の質疑でも同じです。誰も内容を真剣に聞いているわけではなく、期待された役割を演じているだけ。中には真摯な市民派議員もいますが、市民派議員の役割を演じるのに夢中で、言葉の中味は吟味されていない。その証拠が「暴力的メディアが子供を暴力的にする」云々。

■マスコミ人はもっと賢くならなければならないとか、議員はもっと賢くならなければならないという論壇人みたいなことは僕は言いません(笑)。論壇人はもっと賢くなれとも言いません。だって、ムリでしょう(笑)。じゃあどうするか。僕が以前から述べているように、人にではなく、システムに負荷をかけるようにして、問題を処理するしかない。

■たとえば、僕は「自己決定=自己責任的な生き方が必要だ」などと紋切り型で締めたことはなく、必ず具体的な教育プランを掲げ、かつさまざまなロビー活動をすることで、そうした生き方をする人間が最終的には社会全体に拡がるようなシステムを設計し、各所に提示し続け、採用を促し続けてきています。それと同じことなのです。

■政治家については、政治家の頭をよくすることはできませんが、有能な政策秘書や政策シンクタンクをつけるシステムにすることで、たとえ無教養な議員でも、無教養な議論を国会に持っていくことができないように、まして立法行為に結びつかないようにする必要があります。そういうシステムが先進国で最も遅れているのが日本です。

■議員も忙しいから、学問世界の業績にいちいち目を通しておくことなどできるはずもない。しかし、そうしたものをふまえた人間が、各議員のブレーンになり、学問的に意味のある水準で議論を行うことができるようなれば、政策決定に市民の叡智は今よりもずっとたくさん集まります。因みに先の番組でも菅直人さんにそうしたシステムを提案しました。

■マスコミについても、同様な提言を既に各所でやってきています。記者さんもディレクターさんも忙しいから、学問世界の業績に明るいことなど期待すべくもない。しかし以前に比べても、社会はますます複雑になり、誰がどこでどう傷つくかを予想することも、さまざまな事件について因果関係を推測することも、どんどん困難になるしかありません。

■であれば、僕がいろんなところで提言しているように、たとえばテレビについては、すでに欧米のいくつかの放送局がやっているようなシステムを導入すればいい。まず報道被害については、市内オンブスマンを設ける。BBCは、弁護士を三人やとって、年間三〇〇〇本弱の番組を見せて社内チェックをやらせる。そうしたシステムを導入するべきです。

■でもネガティブチェックだけではダメ。質のよい番組を増やすためには、プロフェッショナルなリサーチャー制度を作る必要があります。日本でリサーチャーというと、クイズ番組のネタをひろってくる下働きの人のことを言うんですが、そうじゃない。社内にそれぞれの分野に詳しい準専門家を置いて、ボジティブチェックをするのです。

■BBCのドキュメンタリーなどでも採用されているシステムですが、たとえば精神科医の話を聞く場合、精神医学会で学問的に最も信頼されているの誰か、最も評判の悪いのは誰かを指示するわけです。リサーチャーはそれぞれ、精神医学や社会学や心理学の専門家です。純専門家。そういう人たちが、ポジティブなチェックをする。これをするべきです。

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