Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

『絵画の自意識』ヴィクトール・ストイキツァ - 松岡正剛の千夜千冊

2001 ありな書房
Victor I. Stoichita : The Self-Aware Image 1998
岡田温司・松原知生 訳

 タブローが好きだ。どんな現代美術の投げかけた独断と環境愛に満ちた提示より、細部まで描きこまれた光と影の色彩をもつ一枚のタブローはいい。その理由を説明するのが嫌でずいぶんほったらかしにしてきたが、ときにカラヴァッジオフェルメールの一枚をあげ、ときに中村宏の「タブロオは自己批判しない」といった強弁を活用させてもらったことはあるものの、総じてぼくのタブロー趣味をあれこれ開示してはこなかった。
 タブローがテーブルやタブレットタブロイドと同じ「世界」を示していることについては、ときどき高山宏君と長電話したりして、その依って来たる意味をよろこんできた。そうしたエピモロジックな話をべつとすると、美術史上でのタブローはやっと17世紀になって自己実現をしたようだ。

 ところで、タブローの自覚をあらわすにあたって、タブロー内部とタブロー外部の関係をたった一つで決定づけられるものがある。それは鏡だ。
 タブローの中の鏡は、タブローの中の室内関係を劇的に保証する。そればかりか、ヤン・ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻の肖像』が最も有名だろうけれど、凸面鏡などを上手に描きこめば、それだけでタブローは「世界」の全体を放射あるいは入力することさえできた。そのように思って初期近代のタブローに描かれた鏡たちを拾っていくと(その4分の1くらいを本書は例示しているのだが)、まことに圧巻、ついつい魅入られてしまいそうになる。
 ストイキツァはこうした鏡の重視を「反射する絵画」という概念で説明しようとしていた。とくにベラスケスが用いた鏡の用法には、カンヴァスの質感を完全に裏切るための「背反の論理」さえ意図されているというのである。もっと端的にいうのなら、鏡の出現はカンヴァスに付着したペインティング・タブローとしての属性すら隠してしまう可能性をもったというのだ。

 これにはタブロー主義者のぼくもさすがに驚いた。これはあまりにも理屈をこねすぎているのではないか、これはポストモダンな相互テキスト理論にはまりすぎているのではないか、そう思った。ところが、本書の最終章の「裏返しのタブロー」のそのまた最後に、一枚の絵が提示され、その絵を見たとたんに、ぼくは降参してしまったのだ。それはコルネリウス=ノルベルトゥス・ヘイスブレフツの、その名もまさに『裏返しのタブロー』と名付けられた1675年前後の作品であった。
 図版写真を見てもらうにかぎるけれど、これは究極のトロンプ・ルイユであった。そこにはカンヴァスの裏側だけが描かれているのである! そして右上に「36」と記した紙切れがピンアップされているだけなのだ。ペインティング・タブローの属性はなくなっている。タブローが消失したのだ。そんなことを17世紀の画家があたかも現代絵画のルチオ・フォンタナのように、中西夏之のようにやってのけていたのだった。
 なるほど、タブローは最後の最後まで自意識を貫徹してしまったのである。そうだとしたら、レンブラント以降の絵画史とは何なのだろう? ボードレールが批判したように、ただアトリエ主義と写真技術に追従(ついしょう)しただけだったのか。本書を知ってからというもの、いや最終ページを読んでからというもの、ぼくはタブロー主義者の看板を下ろしたままにいる――。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1031.html