Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

カラヴァッジョ、鏡、レンズ、コラージュ、モンタージュ、、、

◇ デイヴィッド ホックニー 著『秘密の知識』 その4 - 美術史が好き!

鏡のレンズを用いて得た映像にはきわだった特徴がある。真正面から見た図であること、明暗の著しい対照とまぎれもない一体感、暗い背景と浅い奥行き感。こうした特徴はすべて装置の限界に起因する。これまでに見たように、画家たちは多様な要素を「コラージュ」してこうした限界を克服し大きな絵を作り上げたもの、各要素を真正面から、また間近に見て描くことに関しては相変わらずだった。すべてが空間のなかに自然に配置されていると思わせたのは、構図を工夫する画家の才の働きにほかならない。
口径が大きく、質の高いレンズができ、凸面鏡に取って代わると(16世紀のどこかの時点)、鏡のレンズで映像を得る術にすでに長けていた画家は、レンズの明確な利点を見抜いただろう。視界が広まるのである。レンズに切り替える画家が何人か現れたが、その過程を最も明確に示すのはカラヴァッジョの作品である。カラヴァッジョのレンズの使い方はじつに想像力に富んだものであったので、その影響はたちまちヨーロッパ全土にひろまり、若手の画家たちはカラヴァッジョの作品を見、その信奉者(カラヴァジェスキ)に学ぼうと、巡礼のようにイタリアに足を運んだ。

イブン・アル・ハイサム 965-1038年
アルハゼン、アルハーゼン(Alhacen 、Alhazen)とも。965年にペルシャを支配するシーア派の王朝、ブワイフ朝支配下のバスラで生まれた。彼はバグダードで科学を学び、おそらくエジプトのカイロで没した。Thesaurus opticus (光学の書)は、1572年にラテン語に翻訳された。太陽光を集めてシラクサ沖の軍艦を燃やすアルキメデスの装置が描かれている。ピンホール型カメラ・オブスクラーを明確に説いた最古の文章。
http://ja.wikipedia.org/wiki/イブン・アル・ハイサム


クロエ・ツェルウィック 1980年 『ガラス小史』
ヴェネツィアのガラス職人のギルドが結成されたのは13世紀の初めのことである。1291年、ガラス造りに携わる者たちは当局に強制され、市内から近海のムラノ島に転居した。これは火元になる恐れのある炉を市内から排除するのと、ガラス職人の効率的な管理を目的としたものだった。
ヴェネツィアのガラス職人はムラノ島を離れることを禁じられていた。脱出は死罪に相当する犯罪であった。逃亡したガラス職人を執拗に追求する刺客にまつわる話も伝わっており、なかにはプラハの城門まで追いつめた例もあるという。
フィレンツェ人アントネッリにより、ガラス職人に技術を手ほどきする初の書物がようやく刊行されるのは17世紀に入ってからのことである。ネッリの著書『ガラスの技法』は1612年に出版され、長く門外不出とされた秘密を万人の手に届くものにした。


ブリタニカ 1883年
ヴァンサン・ド・ボーウ゛ェは1250年頃に。ガラスと鉛を用いた鏡が「透明度が高く、陽光をもっとも反射する」と記している。〜ヴェネツィアでは1317年にガラスを鏡にする術を知る「ドイツの匠」が地元の職人3名に極意を教示するとの合意を破り、彼らの手元に使い道のない大量の明礬と煤の混合物を残し立ち去る事件が起き、早くもこの時期に鏡の製法に世間の注目が集まった。
ところがガラス製の鏡が初めて商業ベースに乗ったのは、そのヴェネツィアだった。その後およそ1世紀の間、進取の気性に富むヴェネツィア共和国は高収益のこの事業を独占し、周辺地域の羨望の的となる。1507年のこと、ムラノ島の住人2人が、それまでドイツのガラス製造業者が門外不出としてきたガラス製の完璧な鏡の製造法を会得したと申し出て、鏡を20年間独占的に製造する券ウィを取得した。1564年、特権を享受したヴェネツィアの鏡製造業者たちが、会社を設立する。


ジャンバティスタ・デラ・ポルタ 1563年
『自然の脅威』を著し、光学機器による映像の投影に関する多くの記述を残した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ

http://blog.livedoor.jp/rsketch/archives/50974170.html
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◇ 消えたカラヴァッジョ - 美術史が好き!

P180
「家主はまたカラヴァッジョが工房にしていた二階に大きな穴をあけたと訴えている。裁判所はその代償にカラヴァッジョの所持品をすべて没収する権限を家主に与えた。書記が壊れかけた家具に台所道具や食器類、ぼろぼろの衣類に題名不明の書籍が数冊、大きな白地のカンヴァス二枚に木製のイーゼルといった哀れを誘う目録を作成している。なかには絵の制作に使ったと思われる鏡や花瓶、刀剣や短刀、安っぽい宝石類等の小道具もあった。」

この記載は、事件を起こしたカラヴァッジョがローマを離れる前(1604年)のことで、カンポ・マルツィオのヴィーコロ・サン・ビアージョと呼ばれる狭い路地の小さな家の話。「工房にしていた二階に大きな穴をあけた」というのは、かなり興味津々です。というのは、カラヴァッジョがどのように作品を描いたか、という手がかりになると思うからです。大きな穴をあけた工房で生まれた、光と闇のコントラストの作品。果たしてどんな穴だったのか、気になりますよね?? 
それに、絵の制作に使ったと思われる鏡というのも、どのぐらいのサイズでどんなタイプだったのかも気になりますね(デイヴィッド ホックニー 著『秘密の知識』では、カラヴァッジョが鏡のレンズで映像を得る術を得ていたと推理しています)

http://blog.livedoor.jp/rsketch/archives/51282865.html


◇ カラバッジョは「写真技法」で絵を描いた=イタリアの研究者 - 三面記事から読み取るイタリア

フィレンツェ(伊)10日AFP=時事】イタリア・フィレンツェの研究者は、16世紀末から17世紀初めに活躍した画家カラバッジョが、カメラが発明される200年以上も前に、写真のような技法を使ってモデルの像をカンバスに投影し、絵を描いていたとの説を唱えている。

 カラバッジョはその劇的な「明暗対比法」で知られるが、研究者ロベルタ・ラプッチ氏は、これは「写真」の基礎となる技術を手に入れていたためだと指摘する。

 同氏によると、カラバッジョは暗室内で天井の穴からモデルを照らし、レンズと鏡を使ってその像をカンバスに投影。これを基に、薬品や鉱物を混ぜて暗闇でも見えるようにした鉛白を使って絵を描いたという。

 カラバッジョは光学に関心を持つ学者らと親しく付き合っていたが、ラプッチ氏は、この技法も友人の物理学者から提案されたものだと話している。

 美術史家らはこうした見方について、証明されてはおらず、カラバッジョの才能をおとしめるものだと批判。これに対しラプッチ氏は、カラバッジョが決して下絵を描かなかった点を挙げ、「写真技法」を用いていたと考えられると反論。また、カラバッジョが描いた人物に左利きが多いのは、カンバスに投影された像が反転したものだったためではないかと指摘している。

http://italiangossip.seesaa.net/article/115774703.html

*1:イブン・アル・ハイサム→http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080129#p11