Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

『ユリイカ 2007年7月臨時増刊号 総特集*大友良英』所収の文書より

http://www.seidosha.co.jp/index.php?%C2%E7%CD%A7%CE%C9%B1%D1


◇ 対話「そろそろスーツもありかもしれない 大友良英×カヒミ・カリィ」より大友良英さんの言葉

一面の壁があるとして、その壁の色って必ず誰かが判断して塗るわけですよね。で、それはアート作品ではないかも知れないけど、でも間違いなく人間がある意図をもってそういうものを作ってるわけです。で、ある時には壁の色を塗るだけで作品になる場合もあって、例えばこの家のこの壁は白にしようということで真っ白に塗っていくという行為、あるいは白くすることで新しい世界が見えたり、あるいは気持ちが切り替わることだってあるかもしれない。それはアート作品ではないかもしれないけど、でもなにかの表現と言えるかもしれない。

 音の小さい大きいという問題は発する側だけでなく聴く側との関係の問題でもあるんです。コンサートの時に静かにやればやるほどみんな静かになっていくし、小さい音で歌ったり演奏したりすればするほど、聴きたいと思ったらどんどん聴く人の耳が拡大していく。そこがとても面白いところで、大きい音でやるから全部伝わるということでは全然なくて、小さくする事によって逆に大きなものが伝わるということがある。あるいは逆に大きくすることによって何かを小さくすることもできるし、その辺の音量の話はとても面白いですよね。


>>>対話「その音は、どこから来たか? 大友良英 × ジム・オルーク」より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070713#p2


◇ エッセイ「信用してる人」(飴屋法水)より

自分と観客の聞いている音が、まったく異なる、であろうにもかかわらず、響きの発生の主体責任のポジションをとり続けている……。


ここには、表現とか作品とか、それを聞くとか見る、という作業のすべてに横たわる問題が、きわめて明確に存在する。


誰もが異なるものを聞いているということ。演奏者と観客も、観客のそれぞれも、決して何も共有などしてはいないということ。


特にそのことを中心に考えたのは、たまさか前日、ギミーヘブンという甘ったれた映画を観て、いささか不快だったからかもしれない。(僕がこういう批判を書くのは珍しいのだが、いきさつゆえ。)


他者と異なる感覚を持ってしまった……感覚を他者と共有できない者、の抱えた残酷な孤独を描く???
すべてが甘い映画だった。


そこには「感覚を共有できない」という設定だけがあり、それでいて、すべてが作者の都合どおりに観客に安易に共有・共感……あまつさえ感動などしてくれるかもしれないという、甘さのみが際立っていた。なんの厳しさも、絶望も無い。


共有できない?ディスコミュニケーション??
あたりまえだ。そんなものは大前提とした上で、ニヒリズムをひけらかすことも無く……ある意味すべてが「誤解」でしかないことを前提にしながら、他者を求めること。


そこでできうるのは不完全な伝達、不完全な共有、不完全な同化でしかない。しかし、不完全だからこそ、支配や依存や洗脳から、かろうじて自分をずらすことができる。主体責任がぎりぎり自分に残り続ける。つまり、自由、というものがそこにはある。


大友良英論「映画には音楽など必要ない」(樋口泰人)より

だからそこでは、たとえば「そこにはバラが映っている」ということが重要ではなく、「そこにはバラのようなものが映っているように見える」ということが重要である。要するに、映画は人に見られることでようやく成立する儚くて淡いものなのだ。そんなことが、あくまでも物質的に語られていると言えるかもしれない。私たちが存在する世界は、実はそんな淡い場所にしか存在していないことを、ゴダールの映画は語り続けているように思う。だからその世界は上映されるものとそれを見る者との相互作用によって常に変容し続ける。


大友良英論「音響的即興を巡る言説」(杉本拓)より

 まず、長い沈黙を導入すると、楽器によって演奏される音がないので、自然と耳は周囲の環境音を捉えるようになる。ここで大友良英は先に述べた「耳が開く」とか「音が溶け出す」というような言葉を用いていた。確かにそんな感じで、このことは面白い現象ではあった(そしてこの頃はそのような言説に強烈な反発は感じなかった)。だが、所詮これは感覚的な面白さである。私達はあらゆることにすぐ慣れてしまう。始めの頃は、長い沈黙だけで、脈は上がり、心臓はドキドキし、やがて音が溶け出していたのかもしれないが、今となっては自分の耳が開いているかどうかさえ分からない始末である。そういう意味では、沈黙はひとつの強度であり、轟音で耳を麻痺させていたのとほとんど同じなのである。同じ事はほとんどの音響的即興についても言える。音楽とは感覚的にだけ捉えられるものなのだろうか? 彼らはあまりにも感覚にすべてをゆだねている。彼らにとって即興とは、耳に心地よかったり陶酔できるような音のテクスチャーを作り出すことであり、沈黙にもそれと同じような態度で接している。

「聴く」ということは複雑な事である。決して(所謂)感覚だけを頼りにしているのではない。モジュレーションもフィード・バックもサイン波も、それらが音の質感だけをたよりにしている限り、完全な行き詰まりに思えてならない。しかも誰もが本来の肌触りや質感を聴いていない。肌触りや質感が設定されているだけである。そもそも、「本来の音」なんて存在しないことに気が付かなければいけないのである。猫やネズミが聴くサイン波と我々が聴くサイン波が同じものであるわけがない。聴覚能力の違いを言っているのではなくて、サイン波を取り巻く文化的状況が私達人間と猫やネズミでは違うと言いたいのだ。同じ人間であっても違う。芸術において、音や物質に対する厳密な定義はあまり意味をなさない(または定義が自由に行えてしまう)。それは作られたものである以上、いかようにも成りえた(える)はずである。可能性を阻害するのは言葉であるが、また言葉によって音に別の可能性を与えることも出来よう。音響的即興が十分に成熟した以上、後者の道を検討しなければならない。

音響的即興はその音の性質上、「音をそのまま聴く」等の言説をそのまま呼び込みやすい。結果、演奏も批評もすべてが「音がただ音であるような」楽園の中でむなしい旋回を繰り広げている。実際に演奏家も多くの批評家もこの楽園に十分満足しているようである。多くの批評家は、音響的即興に肯定的なものも否定的なものも、ジョン・ケージの無音に対するアプローチを引き合いにだし、それとの類似性を指摘してきた。その事は多くの音響的即興家も意識して受入れていたはずである。だが本当はそうではない。ケージの残した多くの可能性の中で、この「音をそのまま聴く」だけが新たな楽園に都合良く取り込まれたに過ぎないのではないか。これはあまりにも安易な道である。音も言葉も、お互いが自分を守るのに最適な関係がここでは築かれている。果たして、ここから新たな問いを発する事ができるだろうか? 一度こびりついた言説はなかなか引き剥がすことができない。音響的即興は今後、それが実際に生の現場で演奏されるにしろ、録音物として残された録音が楽しまれるにしろ、安全なおもちゃとして流通していくであろう。これは新たな文化の誕生として喜ぶべき事であるかもしれない。大いに結構な事である。しかし新たな道を志願するのであれば――それは当然為さなければならない仕事であるが――、楽園からの撤退は必須である。

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>>>「写真とは何か?」などという根源的な問いは、捏造された疑問符である。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090721#p3


>>>マルセル・デュシャンは関係ない
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080317#p1