「白黒写真は饒舌だ」という言い方を以前したことがありましたが、写真にとって色彩の有無はやはり大きなことであり、またどうでもよいことでしょう。八〇年前後から、白黒写真が一種のファッションとしてよみがえってきました。たとえば広告写真にあえて白黒写真が使われだしたのがあのころでしょう。それまでは広告といえばカラー写真が普通で、白黒は「低予算」を連想させるようなものでしかなかったけれど、それが積極的に「シック」なものとして使われはじめたんです。それと同時に、写真家の数人が「白黒は内面を表現するのに適している」みたいなことをいいはじめた。ぼくはそういった語り口には懐疑的だったんですけど。そのころちょうど、七〇年代からのアメリカでの動きとして、新しい態度でカラー写真を撮る人たちの動きも紹介されてきた。もちろん、それ以前から、たとえばアンセル・アダムズだってカラーを撮ってはいる。だけど「ニュー・カラー」と称されますけれども、ある人がこの題名の展覧会を組織して、その中にはウィリアム・エグルストンをはじめカラー写真が以前のように特別なものではなく、日常になっている写真家たちが参加していた。それまでの写真が色彩に対する意識を強調するように用いられていたのとちがって、白黒でストレートに撮るように、カラーでストレートに撮る、といった感じですね。
『写真との対話』(国書刊行会)所収「世界のはじっこにあるものにむかって 畠山直哉へのインタビュー」(聞き手=近藤耕人+管啓次郎、二〇〇二年一二月二五日)より。
◇ 近藤耕人・管啓次郎 編『写真との対話』(国書刊行会 2005年)
写真をめぐって言葉がつむがれる。言葉を追って写真が撮られ見られる。写真をめぐる言説がつねに参照してきた3人の批評家、ベンヤミン、バルト、ソンタグを手がかりに、写真の現在とその文学との接点とを探っていくユニークな試み。
写真の<いま=歴史>をつねに意識化しつつ活動を続けている2人の写真家、畠山直哉、港千尋へのインタビューのほか、ソンタグ「小さな大全」、田中純「歴史の現像――ベンヤミンにおける写真のメタモルフォーゼ」、野崎歓「温室を満たす光――ロラン・バルトと写真による回心」、コドレスク「ウォーカー・エヴァンスのアメリカを読む」、堀江敏幸「本質を汲み出す泉」、キュー・リー「もしデカルトが写真を見たら……」、旦敬介「フアン・ルルフォの廃墟で」といった論考・エッセイおよび、トリン・T・ミンハによる写真=詩コラージュ「他性――Dイメージ効果」を収録。
http://www.amazon.co.jp/dp/4336046565
http://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336046567/