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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

code6 » 『彼女について私が知っている二、三の事柄』再考

彼女について私が知っている二、三の事柄』(一九六六)は、ゴダールが都市開発について描いた希有な作品だが、その情報量はあまりにも膨大であって、未だに分析を加えるに値する。この映画が取り扱う対象はパリ地域圏(イル=ド=フランス)の団地という局地的なものだが、そこに含まれた問題群は普遍性を持っている。そもそも、ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール誌に掲載された団地に関する調査と、それに対して寄せられた女性読者の手紙に着想を得たこの映画は、全体としてドキュメンタリーの雰囲気を持っている。女性読者の手紙は団地に住む四五歳の未婚の母親からのもので、生活費のために売春をせざるをえない事情を綴ったものだった。したがって、映画の基本的な構成は、この女性の団地での生活と売春を断片的に配置したものである。とはいえ、この女性は、団地における特異な存在として描かれているわけではない。売春は何ら劇的な演出を施されることなく、むしろ淡々と描かれている。というのも、ゴダールはこの女性が団地の住人を代表していると考えていたからだ。

ぼくが大いに気持ちをかきたてられたのは、この映画が描いているその逸話が、基本的な点で、ぼくの最も根の深い観念のひとつと結びつくものだったからだ。そしてその観念というのは、今日のパリの社会で生きていくためには、どんな生活水準にいる人であれ、またどんな社会的地位にいる人であれ、なんらかのやり方で売春せざるをえないというもの、あるいはまた、売春に関する掟を思わせるような掟にしたがって生きていかざるをえないというものだ。(ジャン=リュック・ゴダール「一本の映画のなかにすべてをもちこまなくてはならない」『ゴダール全評論・全発言I』)

つまり、どんな人間であれ、何らかの形態で売春をしている。もちろん、彼が念頭に置いているのは労働者のことだ。労働者は、さまざまなやり方で自分の人生を切り売りし、「したくはない労働をすることによって給料を受け取っている」。だから、この映画は売春行為そのものを告発しているわけではなく、売春が象徴する労働と産業資本の形態を解剖・分析し、さらにはそのあり方を吟味・批判しているのである。その業績は、未だに多くの示唆を与えてくれる。この映画の公開から四〇年以上が経過した現在においても、「売春」の基本的な構造は変化していないからだ。おそらく、変化したのは、その形態がより巧妙になり、象徴としての売春すらも覆い隠すほどのしたたかさを獲得したことだろう。

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